沖縄の先人たち

謝花昇(じゃはなのぼる)

 謝花昇は、『沖縄の自由民権運動の父』とよばれる運動家で、1865年に現在の東風平町の農家で生まれ、17歳の時に県で最初の留学生に選ばれ、東京の学習院へ進学しました。

 ほとんどの学生が法律や政治に関係する学科へ進む中、故郷のためにと農科大学へ編入しました。

 東京での9年間に及ぶ学業を終え、沖縄に帰ると沖縄県庁の技師に任命され、県政の改革運動を行いました。
しかし翌年、沖縄県知事が鹿児島から来た奈良原繁になると抑圧的な政治を始めたため、謝花は県庁内で反対運動を行うが現状は殆ど変わらず、県庁を辞職してしまいました。

 退職後は同士を集め、『沖縄クラブ』を組織し『沖縄時論』という雑誌を発行して、知事の悪政を県民に広く知らしめようとしましたが、知事が新聞社を味方にして謝花の活動を批判したため、2年で潰されてしまいました。

その他にも、当時は沖縄には選挙権がなく、国会に議員を送ることができなかったため、参政権運動も推し進めていました。

 『沖縄クラブ』解散後は、沖縄県農工銀行の役員選挙でも破れため仕事をなくし、様々な運動で財産を使い果たしてしまった謝花は、43歳という若さで非業の死を遂げたとされています。

 しかしその死には様々な疑問があり、親族が遺骨を調べると、頭蓋骨に何らかの衝撃による「ひびが入っていた」との証言もあります。

 謝花の死後8年たって、本土より22年遅れで、条件付き参政権が認められました。  存命時には沖縄のために尽力を尽くした謝花昇であったが、その運動は実を結ばなかったものの、その勇気ある行動は多くの人々の心に残り、今も語りつがれています。